
Column
“手放す”という技術 ─ ヨガとインド哲学に学ぶ執着の外し方
記事作成日
2025年8月15日
執着の正体
──なぜ私たちは手放せないのか
私たちは日常の中で、気づかぬうちに多くの“つながり”を心に持っています。
好きな服、よく行くお店、安心できる場所、大切な人──
それらは私たちに喜びや安らぎを与えてくれます。しかし同時に、その対象が失われたとき、心は不安や寂しさに揺れます。
ヨガとインド哲学では、この状態を「ラガ(執着)」と「ドヴェーシャ(嫌悪)」という二つの概念で説明します。ラガは「手に入れたい、持ち続けたい」という強い欲求、ドヴェーシャは「避けたい、遠ざけたい」という反応です。一見すると反対の方向を向いているように思えますが、どちらも心が外の対象に依存している状態に変わりはありません。
手放せない理由は、単にその対象が好きだからではなく、「それがなければ安心できない」という条件を、自分の内に結びつけてしまっているからです。執着は、外界への依存心が形を変えて現れたものだと言えるでしょう。
サーンキヤ哲学の視点
──プルシャとプラクリティ
インドのサーンキヤ哲学は、私たちの世界を二つの原理に分けて説明します。
ひとつは「プルシャ」、変わらず、ただ見つめる純粋な意識の存在。もうひとつは「プラクリティ」、絶え間なく変化し続ける物質世界です。
本来、私たちの本質(プルシャ)は、感情や出来事と直接的に混ざることはありません。しかし日々の暮らしの中で、この二つは混同されがちです。
「私」という存在を、所有物や肩書き、人間関係、感情そのものと同一視してしまうのです。
この混同こそが執着の土台になります。
「あの物がなければ私は満たされない」「この人がいなければ私は幸せでいられない」という感覚は、プルシャとプラクリティの境界が曖昧になった結果です。
手放しとは、この境界を再びはっきりさせる作業でもあります。つまり、変化するものは変化するままに、変わらない自分の核を見つめ直すことなのです。
執着を緩める思考の方向
手放すというと、多くの人は「バッサリ切り捨てる」ようなイメージを持ちます。けれど、人間の心は強引に切り離そうとすると、むしろ対象への意識が強くなる傾向があります。
ヨガでは、戦うのではなく“緩める”方向をすすめます。
例えば「失ってはいけない」と固く握りしめているときに、こう問いかけてみるのです。
「もしそれがなくなっても、私は私でいられるだろうか?」
この問いは、外側の条件と自分の存在を切り離す練習です。
また、「持ち続けることで本当に自由になれているのか?」と自分に尋ねることも有効です。執着は、守っているようでいて、自分を縛っていることも多いからです。
大切なのは、対象を否定せず、肯定もせず、ただ距離を置いて見つめること。その中立的な視点が、執着をゆるやかにほどきます。
日常でできる小さな手放しの練習
執着を緩める習慣は、大きな出来事をきっかけにする必要はありません。むしろ、日常の小さな選択の中で練習するほうが、心への負担が少なく継続できます。
たとえば、1日の終わりに「手にしているものをすべて置く時間」をつくること。
スマートフォンを机に置き、深く呼吸し、「今は何も持たずにここにいる」と意識してみましょう。
また、感情についても同じことができます。モヤモヤしている思いを紙に書き、「今日はここまで」と言って紙を閉じる。それだけでも、心の中の握りしめが緩みます。
他にも、好きな食べ物をあえて一口残す、愛着のある服を誰かに譲る、行き慣れた道ではなく別の道を歩く──
こうした“小さな違い”を生活に取り入れることで、心は「手放しても大丈夫」という感覚を育て始めます。
手放すことで広がる世界
執着を緩めると、不思議なことに安心感は増します。
なぜなら、安心の源が「外側」ではなく「内側」に移るからです。外の条件に左右されなくなると、失うことへの恐れが減り、そのぶん今この瞬間を楽しめるようになります。
手放すとは、何かを捨てることではありません。それは、自分と対象の間に“余白”をつくることです。その余白があるからこそ、私たちは柔軟に変化し、新しいものを受け入れる準備ができます。
プルシャとしての自分を思い出しながら、プラクリティの世界をただ体験する。その繰り返しの中で、私たちは「手放すことが自然になる」という境地へ近づいていくのです。
手放しは、心を空っぽにする行為ではなく、むしろその空間に新しい光や風を迎え入れるための準備なのかもしれません。