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009:世界は自分を中心に回っている
最近、心理学の勉強の一環として「華厳経」を読み進みているのですが、この華厳経では「存在するものは、すべて心の表れである」という思想です。いわゆる「唯識思想」でして、インド大乗の瑜伽行派の人びとによって大成されたようです。
この思想のすごく良いなと思うところは、「自分が存在しないとこの世界は実在しない」ことになります。「自分が存在する、しないに関わらず、会社も地球も回り続けている」なんて思ってしまいませんか?
「自分なんて存在していなくても…」という考えが当たり前と思ってしまうと、それこそ絶望的になったり、自暴自棄になってしまったり…。
この世界はすべて自分との関係性で成り立っているみたいですよ。
皆さんが明日も明後日もその先も存在することで、この世界が回っているんです。
すなわち、『華厳経』においては、具体的な事物や事象に関しても、時間に関しても、個々のものを決して孤立した実態的な存在とは捉えず、あらゆる存在が他のすべて、ないし全体と限りなくかかわりあい、通じあい、はたらきあい、含みあっているとされています。
(引用・参考:華厳経入門, 木村清孝, 角川ソフィア文庫)
そういえば昔、「男性は地図を見るのが得意で、女性は苦手な理由」の一つとして聞いたのは、「男性は家庭でも会社でも社会でも、自分の立ち位置ばかりを気にするため、”全体の中で自分がどこにいるのか”を把握するのが得意である。反対に、女性は”常に世界の中心が私”だから、全体の中での立ち位置は関係ない」というものがありました。
男性、女性の皆さん、どうでしょうか。
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ヨガって、「心」と「体」(と「感覚」)がテーマなので、よく「心身の~」という言葉が使われます。なので、僕自身は「心」と「脳」について今まであまり考えてこなかったなぁ、と。
ちょっと前まで(現在もですかね?)話題だったマインドフルネスやzen/禅等の、“ちょっと非科学的だけど、みんなが納得できるような感覚”って実はもっと前から唱えられていたんですよね。
今回読んだのは1990年代の脳神経学者の研究についての本だったのですが、ようやくそのことに気が付きまして。
きっとご存知の方も多いでしょう茂木健一郎さんは、90年代から科学の分野でも「クオリア/質感」をもっと考慮すべきであると仰ってまして、この“質感”と呼ばれるものが「心」と「脳」の解明に大いに役立つのではないかと考えられています。
質感って何だろう?ということですが、いわゆる僕たちが言葉で説明しきれないものが多く含まれます。
例えば、あなたの大好物がちょっと珍しいものの場合(希少な洋酒だったり、海外の料理だったり)、それをそのまま他人に説明するのは難しいですよね。なにとなく言葉では説明できても、相手には理解しづらいはずです。
ですが、「一切れのソーセージを口の中に放り込み、歯で噛みしめる。肉の汁があふれ出て、口の中いっぱいに広がって─」という説明を読んだだけでも、口の中にソーセージの味が再現されませんか?この感覚が「クオリア/質感」と呼ばれます。“あぁ、なんだか知っているな”という、理論的にではなく、ふと認識されるものです。
なので茂木さんは、赤色のものを見たあとで、緑色のものを見た時に「赤らしさ」と「緑らしさ」の間にある違いをどう表現できるのだろうか?「光の波長で説明出来る」という考え方で自分を納得させているだけではないだろうか?きっとあなたにも「赤」と「緑」の持つ原始的な感覚の差を感じているはずだ、と。
さらには、「認識とは、私の一部である」とも言っています。
なんだか前回(上記)のメルマガでお話した「華厳経」と重なるところが多いですね。色んな事は繋がっているみたいです。
Sahanaメルマガ vol.47&48より(2019年11月)