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Column

美意識と哲学の交差点 ─ なぜ人は“美しいもの”に惹かれるのか?

美しい瞬間に心がとまるとき

記事作成日

2025年10月1日

美しい瞬間に心がとまるとき

私たちは生きているあいだに、幾度となく「美しい」と感じる瞬間に出会います。
秋の夕暮れに空が茜から紫へと移ろっていくとき。人の表情に浮かんだ一瞬の柔らかさ。水面に映る月の光。そうした「美しい」と感じる出来事の前では、不思議と心が静まり、普段の思考が止まり、ただその光景に見入ってしまうのですね。

けれど、よくよく考えてみると、なぜ人は美しいものに惹かれるのでしょうか。なぜ私たちは「美しい」という感覚を持っているのか。哲学においても、これはずっと大きな問いでした。

西洋哲学では、美は「真・善・美」と呼ばれる三つの普遍的価値の一つとされ、善や真理と並んで「人間が普遍的に求めるもの」として考えられてきました。一方で、インドの哲学や美学では「ラサ(Rasa)」という独自の概念によって、美や芸術体験が深く分析されています。

美意識というのは単なる感覚ではなく、人間が「自己を超えていくための入り口」として働いている。ここから先は、そのことを少しずつ紐解いていきたいと思います。

美は「自己超越の入り口」

美は「自己超越の入り口」

美しいと感じた瞬間、私たちは自分自身を忘れていることがあります。例えば、夕焼けの空を眺めているとき、そこに「私の悩み」や「私の損得」という意識は出てきません。ただ、眼前に広がる光と色に心を委ねている。

哲学者カントは、この状態を「利害から自由な美の判断」と表現しました。美しいと感じるとき、それは「役に立つ」「損をする」といった基準ではなく、純粋に「ただ美しい」と心が動く体験だからです。つまり美は、人間を自我の枠から解き放つ力を持っている。

ヨガの実践哲学の言葉を借りれば、それは「二元の対立を超える体験」と言えるでしょう。暑い/寒い、快い/不快、美しい/醜い…そうした対比にとらわれず、ただ「あるがままの姿」と出会ったとき、心は穏やかになります。

だからこそ、美とは「醜いの反対」ではなく、「本来の姿がそのまま現れている状態」として理解する方が近いのです。湖が一点の曇りもなく澄み切っているとき、私たちは「美しい」と感じます。そのとき、美は比較や判断を超えて、ただ存在として輝いているのですね。

インド美学における「ラサ理論」

インド美学における「ラサ理論」

ここで少し、インドの古典的な美学「ラサ理論(Rasa Theory)」について触れてみましょう。

ラサとはサンスクリット語で「味わい」や「精髄」という意味を持ちます。元々は料理や飲み物の「味覚」を指していましたが、芸術や美の体験においても「味わうべきもの」として使われるようになりました。

ラサ理論は、紀元前から存在した舞台芸術の理論書『ナーティヤ・シャーストラ(Nāṭya-śāstra)』に体系化されました。そこでは、芸術作品(演劇や詩、音楽、舞踊)の目的は「観る者にラサを呼び起こすこと」にあるとされます。

ラサは「観客が芸術を通じて体験する、美的で普遍的な感情」です。例えば、悲しい場面を見て涙を流しても、その涙は日常の悲しみとは異なります。芸術を通じて味わう悲しみは、苦しみではなく、どこか心を澄ませ、浄化するような働きを持つ。

ラサには伝統的に 9つの主要な種類 があるとされます。

・シュリンガーラ(恋愛・愛のラサ)
・ハーシュヤ(滑稽・笑いのラサ)
・カルナ(悲哀のラサ)
・ラウドラ(怒りのラサ)
・ヴィーラ(勇気のラサ)
・バヤーナカ(恐怖のラサ)
・ビーブツァ(嫌悪のラサ)
・アドブタ(驚きのラサ)
・シャーンタ(平安のラサ)

これらのラサを味わうことによって、観客は自分の日常的な感情を超え、普遍的な感覚に触れるのです。つまり、美の体験とは「感情を浄化し、心を広げるプロセス」だとされました。

ヨガ哲学やヴェーダ哲学における「ラサ」は、単なる感情の起伏ではなく、「自己を超える味わい」を意味します。芸術作品を前にしたときの感動が、ただ楽しい・悲しいといった個人的な反応を超えて、もっと大きな「人間存在そのものの経験」へとつながるのは、このラサの働きによるのです。

サットヴァと美の清明さ

サットヴァと美の清明さ

ヨガ哲学では、人間の心の働きは三つのグナ(性質)──サットヴァ(清明・調和)、ラジャス(活動・動性)、タマス(停滞・鈍性)──によって形づくられると考えられています。

そのなかでも、美に触れたときに心が自然に向かうのは「サットヴァ」の状態です。サットヴァは、曇りのない澄んだ心、光のような清明さ、純粋で落ち着いた状態を意味します。

たとえば、美しい景色に心を奪われたとき、私たちは活動的に走り回ろうともせず、また鈍重に眠り込むわけでもない。ただ静かに、穏やかに、その場に佇んでいる。この心の性質はまさにサットヴァ的であり、美が私たちをその方向へ導いているのです。

ここで大切なのは、美しい体験が単なる快楽ではないということです。それは「心を純化し、二元の悩みを超える方向へと導く働き」を持っている。だからこそ、美は「哲学」と深く結びつき、人間を自己超越の境地へと開いていくのです。

美の哲学を日常に取り入れる

美の哲学を日常に取り入れる

「なぜ人は美しいものに惹かれるのか?」──その答えをヨガ哲学やヴェーダ哲学に重ねていくと、美とは「自己超越の入り口」であり、「心をサットヴァに導く契機」であることが見えてきます。

ラサ理論が教えるように、美しい体験は私たちの感情を普遍的な味わいへと変え、心を澄ませてくれる。サットヴァの清明さは、ヨガの実践が目指す静けさと調和そのものです。

だからこそ日常の中で、「美しい」と感じる瞬間を大切にしたいのです。夕焼けを立ち止まって眺めること。音楽をただ味わうこと。人の表情の奥にある温かさに気づくこと。その一つひとつが、私たちを「本来の姿」へと戻してくれる扉となります。

美しいという感覚は、比較や評価のためにあるのではなく、「存在の純粋性」に触れるためのもの。その体験を通して、私たちはヨガの言葉でいう「二対のものに悩まない境地」へと近づいていくのです。

美意識と哲学が交差する場所には、静かに広がる世界の真実があります。そこに立ち止まることができたとき、私たちの心は少しずつ、自己を超えた広がりを取り戻していくのでしょう。

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