2019.08.16

スローライフが、むしろ資本主義を「加速」させるという皮肉な現実

加速主義と減速主義の危うい共犯関係
河南 瑠莉 プロフィール

「都会を離れてもっと自然の中で時間を過ごすべき」、「あくせく働いてばかりいないでもっと子供と過ごす時間を設けるべき」、「環境負荷の高い行動をしないでエコでオーガニックなスローフードを実践するべき」、云々。こういった左派的な「啓蒙」主義は多くの場合、〈減速のオアシス〉が、異なる社会的階級にとって異なる開かれ方をしていることに目を向けることなく、「良心的な市民」の倫理観を振りかざす

減速のオアシスは、経済的余裕のない人間にとってはアクセスすることが極めて難しく、ますます「持てる者」の特権になりつつあるという構造的問題にはしばしば目が瞑られる。その代わりに、減速こそが望ましく、個々人が各自の責任において達成すべき規範として提示される。

減速のオアシス。それはつまり、加速と減速にまつわる問題系を、社会的・構造的に共同で取り組んでゆくべく「パブリック」な課題ではなく、個人の倫理的責任とその行動の問題として「個人化=私有化」、あるいは、哲学者J・バトラーの言葉で言うならば、「責任化(Responsibilization)」してしまうことにつながるのだ。

加速する社会の中に、ごくごく局所的な「減速のオアシス」を作り出す。減速主義者の小市民的な主体の中には、あたかも、来たるべき「世界の終わり」に備え、ニュージーランドの大平原のなかにプライベートシェルターをこしらえたシリコンバレーの起業家にして最大の加速主義者、ピーター・ティールの姿を――数十倍矮小したかたちではあるが――垣間見ることができるかもしれない。

ピーター・ティール〔PHOTO〕Gettyimages

減速主義と「優しい顔をした資本主義」

それでは、はれて「減速のオアシス」への搭乗券を得ることのできた果報者たちは本当に、加速から自由でいられるというのだろうか。

ローザは、加速社会における減速の形態を「不本意」な減速(たとえば、技術発展による「失業」や競争の加速による「精神疾患」などを想起せよ)と「意図的」な減速の二つに分けた上で、意図的な減速をさらに二つの異なる思想によって分類する。

第一に、たとえば自然愛好家やスローフードの伝道師たち、あるいはローカリズム運動などといった、反近代的な理想を掲げるがために減速をめざすのが「イデオロギー的」減速主義者たち。それに対し、加速社会のただ中にあってよりスムーズに機能するために一時的な減速の場を設けることに意味を見出すのが、「機能的」、あるいは「加速的」減速主義者たちだ。

 

例えば定期的なヨガやピラティス、「マインドフルネス」の実践、あるいはファームステイして過ごす優雅な週末……「加速的」減速主義者たちは、程よく心身の疲労を緩和することが、より効率的で生産的に、つまりよりスマートに加速社会へと参加するための条件であることを充分に自覚している。グーグルをはじめドットコム企業の「クール」なオフィスにはパワーナップのための仮眠室が設置されているのもそのためだ。

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