Mail Magazine
153:神事と権力
先日、とても有名な神社の神主さんとお話する機会がございまして、「へぇ~そうなんですか」という有難い話をたくさん伺えました。その中でも、神主さんがおっしゃっていた「われわれ神主は神の代弁をしている訳ではないのです。皆さまと神様を橋渡しするメッセンジャーのような役割だと思っていただければ」という言葉が印象に深く残っております。
僕自身、神様はいる派でもいない派でもないですし、皆さんがどうお考えであろうと何だって良いと思っています。ただ、神様的な思想や儀式というのがあってこそ、現実世界のバランスが取れているのではないかなと、史実から考えさせられることはありませんか。あと、神様の存在を確認できずとも神社に御参りすると心が洗われた気がしますよね。シンプルに「パワースポットは清められるわあ」と感じる方もいるっしゃるかも。
仏教やヒンドゥー教など、今でも伝えられる諸宗教が興る前のインドでは、神への信仰がとても重要視されていました(まぁ、今でもそうなのですが)。信仰の際に大事になるのが祭式なのですが、本来は祭式を執り行うことによって神様を祀ることが目的だったのですが、時代の経過とともに「儀式そのものが意味を持つ」と司祭から主張され始めます。祭式に参加する側の一般人からすれば「あれ?神様は?」って感じだったわけです(まぁ僕は実際に知らないんですけど)。
王族の人ですら司祭に逆らえない時代なので、なんともまぁ”権力を持つと人は欲にまみれる”みたいな話です。ですが、この時代の祭式主義に反発した人々が、現代でも影響を及ぼすインド史の大転換期をもたらすのです。ちなみに皆さんご存知のブッダさんは、司祭の1つ下のカーストである王族出身にも関わらず、仏教を興したというインド史前代未聞の超スーパースターです。
神と人間の関係に対する意識の変化が起きたために、「神も大事だが、われわれ人という存在をもっと知るべきなのではないか」と、ここでインド哲学の発展が加速していくのです。このおかげで、今日まで残るヨガというものが時代とともに確かな体系がつくられていくのです。
というインドの歴史のご紹介だったわけですが、神社に行くことやお守りを持つという行為そのものも大事ですが、その行為を行った際の“自分はどんな気持ちなのだろうか”もとても大事なんじゃないかなと思います。夏至の前にそんなことを思うのも、これでも一応、夏至の日は国際ヨガデーなんだと今年はちゃんと覚えていたからです。
Sahanaメルマガ vol.310(2023年6月)より